【生涯バーテンダーとカキフライ】

【生涯バーテンダーとカキフライ】

こう言ったのは、20年ほど前だったか。

「私は生涯バーテンダーです。」

「それは簡単にできる事じゃないから、気安く口にしていい言葉じゃない。」

とすかさず、先輩バーテンダーが私に言った。

そういえば最近の私は、将来の夢はマンションの管理人さんになる事で、毎日隠れて本を読んでいたいと言っていた。コロナ中も、念願の主婦業をやってみたと、noteに綴っている。

働けるなら75才くらいまでは。と思うとあと30年近く、そのモチベーションを維持できる保証は確かにない。

20歳頃から始めたこの生業に、東京に出てきて一流になってやる、なんて言ったあの頃のガムシャラな動機づけは、もはやない。

ただそれは、植物を愛でる様にそこにあって、「普通の日常」もしくは「日常の普通」だ。時に注意深く観察をして、時に水やりを忘れて、猛暑の全滅の危機に悩まされて。

何年か前には、見たこともないくらいに美しく花を咲かせたローズマリーが今年の春に枯れたりして。

そんな小さな日々の試行錯誤を重ねながら、私は黙々と仕事をする。派手な事はしない。新しい事もあまりしない。それでも私はバーテンダーという生業の職人で有ると自負する。

【カキフライ】

時に酷い理不尽なことが、小ぢんまりと生きている私にも起きる事があって、警察沙汰にするのは大袈裟過ぎるが、素通りするには不愉快過ぎるそんな事にぶつかる。心の行き場に困った時、立ち寄ったライフのお惣菜コーナーで「カキフライ」を買った。

ストレスのため、多めにかけたソースのせいで衣が見えなくなった「カキフライ」が、妙に美味かった。2つ、3つ、そして5つ全てを平らげて満足した頃に、私はもうすっかり先程のことを忘れていた。

美味いものっていいなぁ。

ただ、ただ,そう思った。その瞬間、私の周り半径1.5メートル内は平和な空気に満たされた。

ひとつの悟りを得て、自分ルールが見つかった。しんどい時は何か美味しいものを食べる。そうすると嫌なことへの不快感は分散され、俯瞰の目で噛み砕かれ、やがて「カキフライ」のように消化されて行く。

【職人の仕事】

長いことやっていると、元々は望んで入って、自らつくった環境でも、分からなくなったり、嫌なことがあったりして、「もう、辞めてしまおうか。」なんて考えたことは一度や二度ではない。

それは、人生における壁なのか、偶然の不運なのか、いつも登って来たつもりで、実は登り降りを繰り返している気持ちになる。

でもそれで良いかと感じる。極みを目指して、更なる高みに挑む、究極の冒険者になりたいと、今は思っていない。そんな時期を経て、時に足を止めたり、時に挑戦から逃げたりしてこそ、自分を知り、他人を知る、雨の夜に小さな葉を重ねて、少しだけ雨を凌いでやり過ごす。そんな「止まり木」の様な存在になって行くのかも知れない。

「世界初の宇宙バーテンダー」を私は今も目指している。でもそれは私の日常的生活から斜め上の場所にある。

軒先で、あの時よりまた少し腰が曲がった様に最近思えるお隣さんに、「雨上がりましたね。」と声をかける。あれから5年、コロナの時に小学一年生になった息子が、六年生になった。それを伝える事は、あの頃に嫌な顔ひとつせずに、息子の居場所になってくれた、この人への感謝の気持ち。

「もうすっかり、お父さんより大きくなってねぇ、、、」

少し間があく。私は静かに待つ。束の間の言葉の凪に、雨上がりの春風が立つ。

「お楽しみね。」

そう、時々最後に、そう言ってくれる。

濡れた傘をたたみながら、家を少し通り過ぎた古い小さな商店街に足を踏み入れる。店主の京都風のイントネーションが心地良い。

このお店の職人感は、入った瞬間にわかる。たまにそういう事がある。

本日ランチ3種の中、アジフライ、虹鱒の塩焼きにも強く惹かれたが、初めてのお店だ。海鮮丼に挑む。

カウンターの中で、丹念に研ぎ澄まされた刺身包丁が小気味よく静かにまな板の上を滑る。

間も無くして、お盆に香の物、ポテトサラダ、なめこの味噌汁ともに、マグロ、マコガレイ、ウニの乗った海鮮丼。贅沢すぎる。

一口お味噌汁を。優しい。

香の物。間違いない。

ポテトサラダ。これこれ!

身の締まったマコガレイと贅沢すぎる中トロ、大葉の上には雲丹(うに)。

美味しすぎる。

目利き、仕込み、捌き。

これだけで、大将の「職人の仕事」の高さがわかる。極めた人の技はすごいよね、と誰かに言いたかった。

真面目に生業に向き合って来た人は、たまにこんな小さな街にもいらっしゃる。

それは、雑多な大都会でも、膨大なInstagramの中でもなく、ひっそりと。

幸福感に満ちていた。

何かしんどい事があった気がしたけど、消化されていた。

私もまた、今夜も生業と向き合いますかね。

ひと眠りする為に家路につく。

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