【80個目のストーリー】

【青天の霹靂】

若かりし頃の私は、独立してBARを出す事を、人生の最優先事項に決めていた。

〈2012年5月〉

「2012年7月BARを開業する。」5年前にそう書かれたノートは、この2年間は開かれていない。リーマンショックを言い訳に開業資金はまったく思い通りに貯まっていなかった。

現在の貯金額は5万円、やれやれだ。

〈2012年7月2日〉

Cafe&Bar BlueReefが学芸大学に開業。

あれ、何が起きた!?

明日お店オープンじゃん!

その約1ヶ月まえ。店の鍵を預かって、ただ1時間ほど、何もせずにカウンターに向かい立つ。10年後もここで立っていられるだろうか?そのイメージは出来るか?

自問自答する私と、「当たり前だろ!」と言うしかない私が、2人並んで闇の中、元々は白だった扉を睨みつける。

そもそもに無茶な話だ。

駅の反対側にある空き物件、これも同時に借りて2店舗同時に開けてくれと。資金もパートナーもいない私ができたことか。

半日かけて、思いつく限りの知人に電話をかけた。気づくとすぐ隣に祝(いわい)氏がいた。

それですぐに、「お店、やります!やらせてください。」と、家主さんに電話をかけたのだが、ごめんね、もう他に決まったよ。と、

昨日の今日なのに、、、

そんなもんか。なのになぜか、しつこい私はもう一度電話をした。

「そんな考え方があるのか!だったら君にまかせよう!」と。

え?なになに?何が起きたの?

そんな提案をしたつもりも、そんな資金もないのに、相手には何ヶ月かまとめた家賃およそ100万円を一括先払いすると理解されたようだった。

そして、突然2店舗出すことになった。

打ち合わせに立ち会ってくれた祝氏が、100万円は直ぐに用意します、と言うように私に促し、とりあえず言われるがままにした。次の日に祝氏が100万円を持って来て私に手渡した。明日、家主に払うそのお金を通帳に記入し、開業資金ということにして、金融機関にお金を借りに行く。必要書類を完璧に用意して、書類名を全て頭に入れて、順番にしまう。

アポイントをした担当者に、言われた書類を一時の躊躇もなく差し出して、仕事が出来る風を装う。

あっという間に、200万円の融資が決まり、どんどんと準備が進んでいく。

あまりに突然すぎて、勤め先には1ヶ月後に辞める旨を伝え、その2日後にはオープン予定を告げるハガキを大量に刷り投函。

夕方出勤に間に合うように、朝8時に起きて、買い出しに向かう。今ほどスムーズにネットで買い物ができる時代では無かったから、イケヤやら、ハンズやら、ドンキやらに足を運ぶ。毎日がどこまで動けるかが勝負だった。

歩きながら酒屋や氷屋と打ち合わせをして、誓約書を交わす。そして夕方には仕事に行き、終電で家に帰る。また朝早く起きて、店の掃除に行く。

あっという間にキャパオーバーになり、飛び乗った電車は逆方面に向かい、慌てて降りたら、また同じ方向に来た電車に乗っていた。今度はちゃんと反対方向に乗れたと思ったら、降車駅を通り過ぎ、遠く彼方へ。

朝イチで電車に飛び乗って、そのまま逆走し、何もできないまま、その日5回も電車を乗り間違えた。なぜか渋谷駅に辿り着き、悔しくて渋谷のホームでシクシクと1人泣く。

次から次へと涙が溢れてくる。次から次へと人の波が押し寄せる。でも今は立ち止まるわけに行かないのだ。

手ぶらでお店に行き、はかどらない掃除をし、気づいたらそのまま床に倒れ込む。不意の仮眠に飛び起きて初台の職場に向かう。

職場では最近私用の電話が多すぎると指摘を受けた。その最中もポケットで電話が鳴っていた。いつ辞めても大丈夫なように、職場のパソコン周りは一年かけて、いつでも引き継げるように作り直していた。それだけは助かった。

そんな私に、職場を辞める最終日、せめて体を休めてくださいと、店長が出勤を交代してくれた。開店前に久しぶりにゆっくり寝ることができたことは、今も時折思い出す。

突然で、無計画で、無謀だったけど、とにかく本気の覚悟のあった私の1ヶ月に多くの人が力を貸してくれて、あのノートに書いた通りに、不思議と2012年7月2日にCafe&Bar BlueReefを開業することができた。

まさに「青天の霹靂」のようにチャンスが降って来た。

【スーツマン】

でがけの鏡はいつも僕の最高の姿を映し出す。

片手にカバン、片手に新聞を持って、もう片方で吊り革をもつ。スプリングの入った革靴は、地面を蹴るたびに跳ね上がる。

やがては世界をまたにかけて飛び回るビジネスマン様のお通りだ。

さぁ、道を開けろ!

夢と希望は、2度こわれる。

理想につぶされ、また現実につぶされる。

やがてスプリングはとれて、靴底はすり減った。

カバンと新聞を持ったら両手がふさがり、吊り革につかまることは出来ていなかった。混み合う人にもたれかかって、肘で背中を押し返された。

道は開かず、壁とノルマに囲まれて、やがて埋もれて、潰れた。

行きたくない上司の誘いは唯一の栄養を取る手段となり、代わりに飲まされ消耗する。酒を飲む時の上司の顔は仏のようだったが、朝の上司はまさに鬼そのもの。

1日3時間の睡眠と、1日30時間のストレスと、30万円の給料が、スーツマンの現実だ。

うずくまるようにキーボードを叩く、頼りない背中を見ながら、隣の部署の先輩が、すぐに病院に行けと告げた。

伝えたら上司に叱られた。

お前今日の数字まだあがってないやろ。病院いってどうするんや。

「十二指腸潰瘍」と診断された私は、限界を知り半年足らずで会社をさる。

意味もなく涙が止まらない時があったのは、鬱の兆候もあったのだろう。

スーツマンは死んだ、、、

はじめて人生から逃げた。逃げることを知った。逃げて良いことを知った。逃げてもやり直せることを知った。

横須賀に帰って来たなら、また戻ってこいよと、大学時代のバイト先のホテルBARのマネージャーから電話が来た。

26歳で東京に来て本格的に修行をして、開業することを決意する。

その物語、始まりの電話だ。

【新たな舞台から】

大体のことは、100回やれば、それなりに、それなりに、なるのよ。ラジオパーソナリティが言っていた。ホームページができたタイミングでそこにブログを書くようになった。書いてるうちにこれが、1つの解毒なのかなと、こんな世の中、良いなとか、嫌だなとかを書いて消化する。

バーテンダーとしての私と、そうでない私と少し立ち位置の違う私に出会い、融合と分離を繰り返す。考えすぎるから、文字にして自分なりのピリオドを打つ。少し肩の力が抜ける。

イスラエルにいた時は逃げ場がなかったけど、つかの間の会社員の経験で「やばい時は、迷わず逃げるべし。」を覚えて、楽になった。だから逆に、頑張るときは、ガムシャラになれた。「清水の舞台から飛び降りるつもり。」だ。それはあくまで「つもり」だからいい。

一度ほんとうに京都の清水寺の舞台の端に立ち、本気で飛び降りるイメージをした時は背筋が凍った。ここからは嫌だ!と。

私の高所恐怖症はイメージの中で発動する。夢の中でも発動する。もし落ちたら大変!って思うと足がすくみ動けなくなる。もし落ちるなら、投稿動画で見た、宇宙ギリギリの地上300kmの成層圏から飛び降りるくらいの高さがいい。

思わぬところでチャンスを拾ったり、体が悲鳴を上げるほど追い込まれたり、ただただ穏やかな時間が流れたり、ここからまた10年、20年と歩んでゆく。25年経つと、お店は築100年だ。新しい舞台にまた立っているかも知れない。

未来が明るいと思えるのは、今の自分が明るいから。その逆もしかりで。

結局、私は、何でもなく,ただただ自分自身なのだ。それでいい。あなたも、あなたのままあなた自身でいい。

飾りたければ着飾り、飽きたら脱ぎ捨てればいい。

あのとき連れて来た膝丈ほどのガジュマルはもう4メートル近くになった。一緒に育って来たつもりが、すっかり抜かれてしまったよ。

とりまく世界は変わったし、自分も変わった。

人と比べない事が、

最後は最強だと知った日。

これが私のブログ80個目のストーリー。

まずは100を目指して文字を編む。

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【生涯バーテンダーとカキフライ】