【スーパースター】

【スーパースター】

音楽が奏でられる時。

ギターを弾く。ベースを弾く。三線を弾く。ドラムを叩く。そしてピアノを弾く。

1人でそれらを全てこなして、レコーディングしてループさせて、1つの楽曲を、作品を創りだす。

完璧なリズムと計算されたサウンド。

先日のグラミー賞 ”最優秀グローバルミュージックアルバム賞” を受賞した方の受賞ライブだ。

私にとって人生ではじめてのビルボードライブに圧倒される。

たまたま座った席が、アーティストの出入口に近かったため、生意気にもハイタッチをする心の準備をして、アーティストの登場を待つ私。普段なら笑顔でどうも!と言ってくれる、その方の目線は舞台を見つめ歩いていく。私の前を通り過ぎる直前に気づいて、私の出した手に2度触れる。

その手から感じたのは大舞台への緊張では無く、見たこともない集中力。鳥肌が全身を襲う。

そんな始まりのビルボード。

お酒を飲むが止まる。

フライドポテトを食べる手が止まる。

ことばが止まって。。

止まらなくなる、涙。

見えないものが、見えている。

聞こえないものが、聞こえている人なのだな。

嗚呼、こんなにステージは近いのに、随分と遠い所に行かれたのだなと。

それでいい、そんなスーパースターが世界にはいる。そんな世界に私達は生きている。そんな幸せ。

「入り口にいてくださり、心強かったですと。」

後で連絡を頂く。

【ネバーギブアップ】

「継続こそ力なり」。

「ネバーギブアップの精神が大切!」

などと言うと、少し気恥ずかしい気もする言葉だが、それだけ使われてきた言葉。

とても大切な言葉。そしてその心構え。

いつまで続けたら良いのだろう。必ず目標を達成できるのだろうか?

その先にゴールはあるのか?

そんな不安をきっと誰もが感じているばす。

しんど過ぎたら無理しないで諦める事、そこから逃げる事だって必要な時は必ずある。

だから、誰もが必ずネバーギブアップの精神を持つべきでは無いし、もしかしたら、それは強すぎる言葉になってしまう時もある。

だから、そう言う壁を超えて、頂上まで登り詰めた人は、賞賛を受けるのだ。私達は「人」だから、そんなに本質的に変わらない筈だけど、「その件」に関して言ったら、頂上まで行った人は、とんでもない高みに行ってしまった人だ。

その先に必ずそこへ続く道が有るかなんて保証はないし、そこまで体力、気力が続くかだって分からない。高みに行けば行くほどに、ライバルはどんどんバケモノ級になって行く。

それでも諦めずに、自らがその頂に立つ事をイメージして、もしくはイメージすら出来ない程、遠く高いステージへ向かう道があると信じて、進み続けた先にあるもの。

ネバーギブアップの精神の先にある。手を伸ばし続けて、何度も届かなくても、それでも手を伸ばし続けて掴み取った証(あかし)。

【ギフト】

神様からの贈り物。

天才とはそう言うものを持っているのだろうか。

いや、それは結果論の様に思える。確かに多くの天才と呼ばれる人達は、小さい時から頭角を現していたとか、短期間で難しい何かをいとも簡単にやって見せたとか、何かしらエピソードを持っている。

しかし、そんなエピソードを持っている人は実はいくらでもいる。

勿論、才能がなければ出来ない事だったり、楽しく続ける事も難しくなるかも知れないが、エピソードを超えた、努力や信念、探究心、好奇心、感性、運もしかり、あげればキリのない多くの要素をフル動員して、向き合い続ける事のできる能力こそが、才能やエピソードを超えて、結果を勝ち取った、その後に、天才と呼ばれる人のもつ「ギフト」だ。言われるのかも知れない。

天才は違うとか、あんなバケモノには敵わないとか、そう思って身を引く方が大多数だろう。私は、諦めたり、逃げたりする事の大切さも知っている。

それでも、東京は凄いところで、そんな凄い人と出会う事がたまにある。遠くて大きなステージで活躍する人達。

そんな凄い人達も、BARに来てグラスを傾ける時は「人」に戻る。鬼神のごとき集中力から、自らを解放させて、リラックスしている。

色々な人と話して、色々な経験を聞き、カウンター越しに擬似体験する時もある。みんな、それぞれの舞台でのスーパースターだ。

そんな人達と語らうことの出来る、このカウンターは私にとっての「ギフト」だ。

Previous
Previous

【鰹節の目利きという世界】

Next
Next

【死神】